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三国志、知らないってかたもおられるようなんで、武将を紹介しようかな、と、おもに軍略に出て
くる武将を紹介してますが、関係ない武将も出てきます。
襄陽の名家である「馬氏の五常」の中の五男(末っ子)として誕生した。白眉で知られた馬良の
末弟。
217年頃、荊州従事として蜀に入り、劉備に仕え、各所の県令・太守を歴任した。軍略に詳し
く、その才能は諸葛亮に高く評価された。ただ、劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終する間際 にも、「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と諸葛亮 に厳しく念を押したといわれる。しかしながら馬謖の才能を愛する諸葛亮は、劉備の死後、彼 を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った。
228年春3月に諸葛亮は第一次北伐の際、彼に戦略上の要所である街亭(甘粛省安定県)の
守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山 頂に陣を敷いてしまう。副将の王平はこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。
その結果、張こうらに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫すこととなる。翌5月に諸
葛亮は敗戦の責任を問い、馬謖を軍規に基づいて処刑する。手塩に掛けて育てた優秀な人材 だったために、諸葛亮は処刑された彼を見て号泣したとされる。これが後に「泣いて馬謖を斬 る」と呼ばれる故事となった。
自分はこの馬謖を反面教師として、常に、口だけにならないように気を付けようと思ってます。
某部曲員が好きらしいので、今回は魏延を紹介します。
ウィキからコピペしようと思いましたが、正史、演義のどちらも長い文章なのですべてをコピペ
するのは断念。
まずは正史のほうから211年の蜀入りの際、劉備軍に随行し一隊長を務め、たびたび戦功を
立て、牙門将軍に昇進した。
221年、劉備が皇帝に即位すると、鎮北将軍に昇進した。
諸葛亮・楊儀とは仲が悪かった、最期は諸葛亮の死後、楊儀が馬岱に追跡させ、魏延父子を
斬り殺させた。で、魏延の三族は処刑された。
演義のほうは、魏延は初めは荊州の劉表配下の親劉備派の将軍として登場する。
魏延は長沙太守韓玄の配下となってましたが、劉備軍が攻め寄せてきた際、それを迎え撃っ
た同僚の黄忠が関羽との内通を疑われ韓玄に処刑されそうになったときに、魏延は民や兵士 を扇動し共に反乱を起こして韓玄を斬り、城を開け降伏した。その後、降参し劉備と対面した 際、その時の行動(主君を裏切る行動)に対して、諸葛亮は「反骨の相(頭蓋骨が後部にでて いること。裏切りの、象徴とされる)」があると言い、魏延を斬るように進言するエピソードが設け られ、後々の因縁の伏線となっている。
最期は、偽って魏延の味方をしていた馬岱に斬られたが、これは生前の諸葛亮の策であっ
た。この部分は、正史に採用された逸話をなぞりつつ、魏延の最期をよりドラマチックな形で演 出する手法がとられている。
関羽の次男、正史では関羽伝にてわずかに触れられているのみである。そこでは、関羽が死
ぬとその跡を継いだこと、そして諸葛亮からも将来を嘱望された人物であり20歳にして侍中、 中監軍に任じられるが数年後に没したことが記されている。
演義のほうでは、関羽の弔い合戦として呉征伐の軍を挙げる際、その先鋒を張飛の息子であ
る張苞と武芸比べで争う。勝負は互角であったが、劉備の采配で一年年長の張苞を兄、関興 を弟として義兄弟の契りを結ばせる事になった。関羽の弔い合戦では全身に白い鎧をまとって 出陣。そこで亡き父の霊に助けられ、父の仇の一人である潘璋を斬る。呉征伐の終盤、夷陵 の戦いにおいては劉備をかばい重傷を負う。以後も蜀軍における将軍として度重なる北伐に 参加し、張苞と同じく得物は父の形見である青龍偃月刀であった。たびたび関羽の霊に助けら れつつ活躍。しかし第4次北伐には病のため参加できず、ほどなく病没する。諸葛亮はこの訃 報を漢中で受け、悲しみのあまり倒れてしまった。以上、ウィキからコピペしました。
劉備が劉表の客将として荊州・新野(河南省南陽市新野県)に駐屯していたときに軍師となり
ました。演義では、曹仁を破るなどして活躍してましたね。(孔明の前座的な活躍)、その後母 親が曹操軍に囚われて、やむなく曹操に仕えることに、演義ではその後すぐ母親は亡くなりま したが、正史のほうでは亡くなってないそうです。その後目立った活躍もなく234年に亡くなっ たそうです。
因みにコーエーの三国志Tのゲームでは、劉備の知力を100にして、徐庶を知力98にしてま
した。
ブログにも書きましたが、関羽配下で、関羽が曹操のもとを去り、劉備のとこに行く途中(関羽
の千里行)で知り合って配下に、元黄巾賊、正史には登場せず、三国志演義にのみ登場。
周倉は架空の人物となっているためか、関羽の赤兎馬と同じ速度で戦場を自らの足で走って
従軍したとされ、そこから様々な伝説を生んでいる。と、ウィキぺディアに書かれてました。ま ぁ、あくまで伝説ですからね。
三国志演義では、関羽の養子で長男、正史では『子の関平』と書いてあるそうです。子の関平
ってことは、実子であった可能性もありますね。
三国志演義では、いわゆる関羽の千里行で養子になってます。
馬超の従弟、正史では馬超伝と魏延伝でしか記述がないそうで、あざなもありません。
下の文はウィキペディアに書かれてた、魏延伝の中の馬岱の記述
諸葛亮による北伐が失敗し、諸葛亮が病死したあとの234年に退却途中で魏延と楊儀が反目
しあって互いに相手が反乱を起こしたと皇帝劉禅に訴え、魏延が敗れて逃亡したが、途中で馬 岱に追いつかれて殺された(『三国志』「魏延伝」)。
あきらかに演義とは違う内容ですね。演義では、孔明の指示ということになってますからね。
魏の武将で、曹丕同様に曹操から可愛がられて育てられた、そうです。おもに呉と戦ってたよ
うですね。最後は、呉との戦の敗戦のショックによって発生した悪性の腫瘍が原因で間もなく洛 陽で死去した。と、ウィキぺディアに書いてました。
呉の武将ですね。孫堅、孫策、孫権と孫家三代に仕えた呉の名将、とウィキぺディアに書い
てありました。
朱然は養子ですね。朱治の姉の子供ってことですから、甥にあたりますね。
呉の武将、孫静の三男、孫権の従弟、酒席で甘寧と喧嘩になったというエピソードがあるそう
です。
呉の武将、ここから後はウィキペディアから、そのまま抜粋、孫堅・孫策・孫権の三代に仕え
た。武勇に優れた人物で、呉の主要な合戦の大半に参戦して武功を挙げた。孫堅時代からの 宿老でありながら、常に呂蒙や陸遜ら、自身より一世代下の武将のもとに配属し、最前線で活 躍した。軍法に厳格であったが、多くの部下から慕われた。
呉の武将、蜀の諸葛亮孔明の兄、思慮深く、人当たりは良くそのため周囲の評判は良かっ
た。そうです。
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